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寿司テロの痛々しさ

寿司テロ

外食チェーン店での客の迷惑行為が話題になっています。以前も似たような話があった記憶があります。今回の「寿司テロ」にせよ「バイトテロ」にせよ、その結果は、当の本人たちの軽はずみな考えに見合わない深刻なものになることは知らないはずもないのでしょうが、このような迷惑行為は、厳罰化や防止策の抜本的な見直しが行なわれない限り後を絶たないのだと思いました。

 

迷惑行為が、同席者の“ウケ”を狙ったものなのか、SNSでバズることが目的だったのかはさておき、食べ物を粗末に扱うことや、後から来る別の客のことを考えない行ないに弁解の余地はありません。

 

店側が被る被害の甚大さからすると、「寿司テロ」のキャッチーなネーミングは軽薄な気がします。恐らく、迷惑行為を仕出かした当の本人もほんの悪ふざけ程度にしか考えていなかったのだと思います。

 

そのニュースを見て、妻や娘たちは呆れかえっていましたが、私は、当の本人が自分の行為の結果に思いが至らなかったことに怒りや不快感以上の痛々しさを覚えました。

 

食事作法と感謝

私の両親は世代的に食事作法にとてもうるさかったのですが、今思い返すと、至極当然のことしか言っていませんでした。正しく箸を持つこと、肘をついて食べないこと、音を立てて食べないこと、等々 - 幼い頃の私は、食事作法を知らないと自分が恥ずかしい思いをするのだと思っていました。しかし、後になって、それは自分が恥をかかないためと言うよりは、周りの人々を不快にさせないためのマナーなのだと考えるようになりました。

 

また、私は両親から食べ物に感謝することも教え込まれました。食材を育ててくれた人や食事を作ってくれた人への感謝もさることながら、命を頂くことへの感謝、安心して食事を口に出来ることへの感謝 – そのようなことを繰り返し教わりました。特に、戦中に少年時代を迎えた父は、そんな話の最後には、いつでも食事にありつけることを当たり前だと思うなと私に言い聞かせたものでした。

 

自分が口にするものに対する有難みを感じているなら、決してそのようなことはしないだろうと思います。娘から「迷惑行為」の映像を見せられた時に私が感じた“痛々しさ”。それは、本人の周りに、食べ物を「頂く」大切さを教えてくれる大人がいなかったことへの憐れみに似た気持ちでした。