和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

惰性の法則(2)

惰性の川

私の勤め先に関して言えば、所謂パワハラ上司がいなくなったことで、表面的には職場環境は随分改善されました。

 

ただし、それは会社の自浄作用が働いたからではありません。世間でハラスメントに注目が集まり、まともな会社であればその対策を講じることになりましたが、私の勤め先もその流れに乗った、あるいは乗らざるを得ない状況に追い込まれたに過ぎません。

 

“元”パワハラ上司は、心を入れ替えたのではなく、自分の立場が危ういと感じたから大人しくなっただけで、本質が変わったわけではありません。

 

もし、世の中の動きと言う外圧が無ければ、パワハラは、部下への指導が少しばかり“行き過ぎた”程度のことにされて、パワハラ上司は部下思いの熱心な管理職と認められていたかもしれません。

 

事実、私は若い頃、不満や疑問を抱きつつも、会社の上下関係とはそのようなもの、と自分を納得させてきました。

 

残業も然りでした。ほとんど毎日、寝るためだけに家に帰るような生活を繰り返していると、頭では「こんな生活はおかしい」と分かっていても、それを断ち切ろうと考えることはしませんでした。

 

会社に飼いならされて、周りに流されることに慣れてしまうと、惰性で生きて行く状態から抜け出せなくなってしまいます。当時の私は、時折上司に盾突くことはあっても、現状を打破するとか、惰性の流れから抜け出だそうとする気概までは持ち合わせていませんでした。

 

私にとって会社で働くのは、満員電車に乗り続けているようなもので、押し出されないように奥に進んでいるうちに、いざ降りようと思った時には降りられなくなっていました。

 

新入社員の頃は、体を壊してしまったり、精神的に不調になってしまったりするまで仕事をする人の気持ちが分かりませんでしたが、自分が三十代半ばで休養を取らざるを得ないことになって、惰性の川に身を預けていると、自分の体調にすら気が回らなくなってしまうことがようやく理解出来た気がしました。

 

私は「忙殺」の意味を殺されるほどに忙しい状況に追い込まれることだと、ずっと取り違えていましたが、それは、ある意味、私にとっては当たっていました。生きてくための手段のはずの仕事に憑りつかれてしまい、仕事をするために生きているのは、今にして思えば心が死んでいる状態でした。

 

そんな状態で押し流されている自分を、私は長い間、自分の意志で、自分の責任感で 自分の判断で歩んできたと思い込むことで、私は平静を保とうとしていただけでした。

 

ほとりにて

再び惰性の川を泳ぎ始めた私は、五十代半ばで、今後は自分の意志でそこから抜け出しました。

 

自分の時間と労力の多くを費やしていたものは、その期間が長ければ長いほど、手放す時にある種の恐怖感を伴うものです。多少なりとも仕事に対する責任感があれば、自分が仕事を手放すことで、周囲に迷惑が掛かってしまうのではないかと心配にもなります。

 

それでも、仕事に対するやりがいや使命感は、家族との時間を大切にしたい思いを超えるものではありませんでした。

 

自分がこれまで流されていた川は、そのほとりに立ってみると案外狭く、流れも緩やか。溺れないように藻掻いていましたが、すっと立ち上がれるほど浅い川だったのかもしれません。

 

私はまだ会社を辞めたわけではありませんが、これまでの仕事にまつわる悩みや苦労がきれいに流されていく気分を感じています。