和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

プライドの殻

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出戻り制度

私の勤め先では、数年前から転職者の“出戻り”を受け入れる制度が導入されました。それまで、私の知る限りでも数名、転職した後に戻って来たいと希望する者がおりましたが、未だかつて“出戻り”が叶ったケースはありませんでした。

 

ひと昔前まで、部下が会社を辞めるとなると、その上司の査定に大きく響きました。そのため、転職を申し出た部下を上司は必死に慰留し、時には退職願を握りつぶそうとする者までいたのです。

 

そのような会社側の慰留に拘わらず、人材流出の勢いは止まらず、挙句、人事部の中からも転職者を出すことになった時点で、部下の退職が上司の査定に影響するような慣習は無くなりました。それは、人事部のご都合主義であることが一番の理由ですが、退職者の掲げる退職理由が、仕事のつらさや職場の人間関係から、会社の将来性への不安など、職場や上司・部下の関係の中で収めることの出来ないものに変質してきたことが大きな要因なのではないかと私は感じています。

 

私個人としては、転職しやすい環境は、特に若い世代の人々にとっては好都合だと考えていますが、雇用する側にしてみれば、従業員にとってより魅力的な会社にし、それを維持・向上させていかなければ、有能な人材を獲得出来ないばかりか、人材の流出すら止められないと思っています。

 

冒頭の“出戻り”制度は、エージェントを使った中途採用者獲得以外に、転職していく社員の承諾を得た上で、退職後に“様子伺い”を行ない、もし本人が希望すれば優先的に“再雇用”を考えると言うもののようです。

 

抱き合わせ採用

そんな出戻り制度が出来るはるか前、転職していった部下がいました。彼は大学を入り直して修士課程に進んでいたので、入社時には30代に差し掛かっていました。

 

私の勤め先では、エンジニアや研究職は、付き合いのある大学の研究室から教授の推薦で入ってきます。そのような慣習の良し悪しはともかく、会社としては大学側が推す一定のレベルをクリアしている学生を採用し、大学側も学生の就職口を確保出来るので、持ちつ持たれつの関係にあることは間違いありません。

 

その年も研究室から若干名の学生を採用することが決まっていましたが、その中に件の彼がいました。彼が退職すると言い始めた頃になって知ったのは、会社としては30代の新入社員の採用を当初は謝絶していたところ、大学との長年の付き合いと継続的な有能な人材の確保と言う観点から、彼の採用を決めたと言うことでした。彼自身は、会社が欲しがっていた学生との抱き合わせ採用だったことなど“露知らず”だったのでしょう。

 

彼は私の部署に配属されましたが、早々にトラブルの種となりました。直接人事部に自分の給与が安いと文句を言い、年齢や学歴の下の人間と同じ仕事はしたくないと言い、そのくせ与えられた仕事は知ったかぶりをして覚えようとしない -  当時の私の上司は彼を「うちの部にもついに“困ったちゃん”が現れた」と暢気に構えていましたが、直接面倒をみなければならない私としては、上司の冗談を笑っているゆとりはありませんでした。

 

新入社員の中には、入社前に給料を含め待遇の説明を受けているはずなのに、会社に入ってから文句を言い、実績も無いうちから仕事を選り好みする世間知らずが少なからず存在します。

 

それでも、彼ら・彼女らの多くは、しばらくすれば学ぶのです。しかし、彼は学びませんでした。学ばなかったけれども、自分が周囲から浮いていることには気づき始めたようでした。

 

プライドの殻

彼が入社して半年経ちました。同期入社の技術職は研究部門や技術部門でそれぞれの道を進み始めていました。彼がその意に沿わずに私の部署に配属されたことは分かっていましたが、彼が技術部門で仕事をしたいと言っても、今のままでは上司として彼を後押しすることは出来ません。年度の中間面談の際、私は彼にこれまでの態度を改めない限り評価のしようが無いことを率直に伝えました。

 

組織の中で働く以上、多少なりとも自分を曲げなければならない場面はあります。やりたい仕事を手に入れるためには、好きでは無い仕事を好きになり実績を重ねて行くことでアピールする以外に無いのです。何の裏打ちも無いアピールが通用しないことは分かりきっていることなのです。

 

上司や同僚の学歴を見下すほどに自分の学歴を誇るのであれば、まずはそれを仕事の出来映えで証明しなければならないことくらい理解出来ないはずは無いのですが、分かろうともしなかったところに私は彼のひ弱さを感じてしまいました。

 

穿った見方かもしれませんが、彼はこれまで構築してきた自分のプライドの殻から抜け出すことを恐れていたのではないかと思いました。高卒、学卒、院卒 – 積んできた学業の差は初任給に表れますが、そこから先は本人が仕事で培う経験や実績、信頼で逆転が生じます。院卒だからと、キャリアを優遇することなど会社は約束しないのです。

 

彼が会社を辞めたいと言い始めたのは、中間面談のすぐ後のことでした。私の上司は自分の査定に響くからと、彼を宥めたり透かしたり、人事部も巻き込んで研究室の教授に手を回して彼の説得を試みたりと、本業以上に熱心に彼の慰留に努めました。

 

私は自分の査定が下がろうが、それよりも彼の思いどおりにしてやれば良いと感じていました。「辞めたい」と言うのが脅しなのか本心なのかも掴みかねていたからです。

 

彼は翌春の人事異動で希望通りに技術部門に転属となりましたが、その後半年も経たずに会社を去って行きました。その直前に、彼が私の部署に戻って来たいと言い出したのですが、私の上司がそれを断固拒否したことから、彼としては行き場を失ってしまったのでしょう。

 

懐かしくない名前

人事部から約二十年ぶりに“困ったちゃん”の名前を耳にしました。私としては懐かしさを感じるような良い思い出一つ無かった彼でしたが、部長と他数名を除き人事部でも当時の事情を知る者はいません。

 

人事部から私へのリクエストは「会うだけでも会ってほしい」と言うもの。技術部門は目下規模縮小中で採用枠はありませんでしたが、事業部門は人手が足りていません。とは言え、これまでの中途採用者の離職率が高いことから安易な採用を控えている状況でした。

 

それを承知のはずの人事部がきっぱりと断れないのは、すでに退官して久しい大学の教授からの“お願い”だったからでした。久しぶりに彼の名前を聞いた時、二十年も経てば人は変わるものと言うかすかな期待がありましたが、卒業して四半世紀近く経とうとしてるのにまだ恩師の伝手を使おうとしていると知った時点で、私の期待は霧散しました。

 

しかも、私は責任の無い気楽な立場になっていますが、彼の出戻りで苦労するとなれば、今の部長以下のチームです。当時よりも頭数の少ない中で何とか仕事を回しているところに、厄介事を増やす危険を冒すことは私には出来ませんでした。

 

その後、直接人事部長ともやり取りして、彼に会わないことで納得してもらいました。そもそも採用するつもりも無い人間と面談することで相手に変な期待を抱かせることは罪だと考えました。それに、私自身、彼と会いたいと言う気持ちが湧いて来なかったのです。

 

彼が今どのような境遇にいるのか知る由もありませんが、一度でも一緒に仕事をした部下が不自由であれなどと願うことはありません。しかし、名前や顔を知っているからという理由だけで手を差し伸べるほど私の懐は深く無いのです。