和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

気楽に生きる

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外面と内面

家から一歩外に出ると、誰でも外向きの顔になると思います。家族に見せる“素の”自分を、学校や会社で見せることはしません。

 

「裏表のない人」は誉め言葉なのでしょうが、それは、外向きとして演じている自分を、相手に関わらず使い分けないことであって、ありのままの自分をさらけ出すこととは違います。

 

介護休業以来、私は外向きの自分を演じる必要が無くなりました。ときたま会社の関係者と事務連絡で話をしたり、メールのやり取りはしますが、仕事の責任を取り除かれた身分は気ままなものです。これをいつまでに仕上げなければ、とか、言いにくいことを誰某に伝えなければ、と言った心の負担から解放されたからです。

 

あまりに気楽な生活を送っていると、それがかえって不安の種になってしまいます。これについては、以前記事に書きましたが、今は、出来るだけ余計なことは考えずに現状を楽しもうと努めています。

lambamirstan.hatenablog.com

 

物心がつき、家族以外の社会との関わりの中で生きてきた自分にとって、これだけの長期間、1日のほぼすべての時間を家族とのためだけに費やすことが出来るようになったのは初めての経験です。そして、そのような生活の中で、これまで無意識のうちに演じてきた外向きの自分は、素の自分とは随分とかけ離れたキャラクターだと言うことに改めて気づかされました。

 

自分を急き立てるもの

業務目標や後進の指導など、会社では取り組む課題が尽きることはありません。目標を達成できても、新たな目標を立て続ける必要があります。自身や組織の能力の向上も求められます。どんなに粉骨砕身しようとも成果に結びつかない仕事もあります。しかし、会社が求めることは継続的な向上です。1年365日、1周回ってスタートラインに戻ってくるのではダメで、常に螺旋階段を上へ上へと昇ることを要求されます。

 

自分自身が階段を登り続けること、部下を叱咤激励して階段を登らせ続けること。会社勤めの宿命なのだとしても、振り返ると、その原動力は自分の中から湧き上がってくるものでは無く、背後から急き立てるものでした。

 

30代半ばで長期休養を取り、仕事との関わり方を見直したはずでしたが、それでもなお、私は“心の負担”の直視を避けてきました。介護休業によって会社人間の自分は置き去りにされ、それを振り返って見つめる素の自分がいます。そのような機会が無ければ、私は退職するまで、自分自身が心の負担を感じていたことから目を逸らせ続けていたことでしょう。

 

今までは、何かに追われている状態が当たり前になっていました。仕事の〆切、部下の管理、社内の人間関係。尽きない悩みの種を抱え、毎週、憂鬱な月曜日を通り過ぎて繰り返される生活を送ってきました。30代で一度心のバランスを崩しましたが、その後は何とかやり過ごしてこれたのは、私が強くなったからでは無く、“たまたま”だったのだと思います。

 

自分を急き立てるものが無くなった今、体が軽くなった私は、再び会社員として復帰できるのか自信がありません。

 

気楽に生きる

自分らしく生きる。それは決して自分中心に物事を考え、周囲の人間を巻き込んだトラブルが生じようと意に介せず・・・と言う生き方ではないと思います。相手のことを思って、良かれと考えたことでも、それで相手が悲しんでしまうようでは本末転倒です。他方、私としては、やりたいと思っていることに時間を費やしたい。気楽に生きたいと言う考えがあります。

 

妻の介助を行なう生活の延長線上には、自分が専業主夫として家事全般を受け持つことも視野に入れています。妻に一度そのアイデアを話したことがありましたが、即座に反対されました。妻は、自分の病気を理由に、私に仕事を諦めて欲しくないと言う思いがあるようでした。私としては、余計なことを気にせずに妻を支えることに専念したいと言う思いから発した考えでしたが、なかなかその思いを妻に伝えることは簡単ではないようです。