和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

自家製マティーニの話

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カクテル実験室

北米に駐在していた頃の話です。ある日、上の娘の高校進学を祝って家族で外食をしました。高校進学と言っても、あちらでは高校も義務教育なので、公立の学校では入試はありません。学区内の決められた学校に進んだだけなので、本人の努力を労う必要も無く、単に娘の進学を外食の言い訳に“利用”したと言うところです。

 

それはさておき、予約しておいたステーキハウスを訪れると、テーブルの準備が整っていないので店内のバーで待っているように言われました。娘二人を間に挟んで家族4人でカウンターに腰かけると、私と同年代くらいのバーテンダーが注文を取りました。

 

恥ずかしながら、それまでショットバーにはあまり縁の無かった私。普段、食事の際は最初にビールを頼むところですが、何の気まぐれか、メニューの中で目に留まったマティーニを注文しました。「ステアでは無くシェイクで」とジェームズ・ボンドが注文したカクテルです。

 

私はそんなセリフを吐くわけでも無く、バーテンダーの手の動きを目で追うだけでしたが、グラスに注がれたそのカクテルを口にした時の感激、あるいは衝撃は今でも忘れられません。

 

その時までマティーニのレシピすら知りませんでしたが、実は最初、バーテンダーが手にしたボトルがジンだと知り、“失敗したかな”と思ったのでした。以前飲んだジンは私には合わず、それ以来口にしたことが無かったからです。

 

ところが、ジンと少量のベルモットで出来たそのカクテルは、私の想像していたものではありませんでした。口に含んだ後に鼻から抜ける香り。アルコール度数の割には喉の奥が焼かれるような不快感も無く、すっと胃に落ちていくような感覚。その後に残る爽快感。私はマティーニの虜になってしまいました。

 

それからしばらくの間、私は外食の際には、食前に必ずマティーニを注文するようになりました。馬鹿の一つ覚えです。そして、それだけでは飽き足らず、私は自宅でマティーニ作りをするようにまでなったのです。カクテルグラスやミキシンググラス、バースプーンまで取り揃えて、週末の我が家のキッチンで、その“実験”は繰り返されました。出来上がった液体は、まず私が口にし、そして、妻にも味見をさせてみます。しかし、妻は顔をしかめるだけで、最初の数回でギブアップしてしまいました。

 

リカーショップで売られているジンとベルモット、そのどれを組み合わせても私を虜にした“あのマティーニ”にはなりませんでした。カクテルブックに書いてある通りの分量を忠実に守り、ステアの回数もいろいろと試してみてもどうもうまく行きません。

 

結局、熱しやすく冷めやすい性分から、私のマティーニ作りの実験は一年足らずで終わりを迎えました。買い込んだ様々な銘柄のジンは、帰国の際に知り合いに譲ってしまいました。妻はそれを結婚以来の無駄遣いだと呆れていましたが、私としては、あれほど嫌いだったジンが飲めるようになったことから、良い授業料だったと自分に言い訳しています。

 

久しぶりの自宅バー

さて、帰国後のある年、私たち夫婦は結婚記念日の外食の後にとあるバーを訪れました。そこで口にしたジントニックが妻のお気に入りになりました。さすがに家でジントニック作りの実験はしませんでしたが、それ以来、外食時にはジントニックが妻の最初の一杯になりました。

 

そんな妻ですが、前回の記事で触れたとおり、しばらくは“ほどほど”であればアルコールを口にしても大丈夫と主治医の先生からお許しを得ました。

 

とは言え、時節柄、バーに繰り出してカクテルを楽しむ状況ではありません。そこで私は、自宅でジントニックを作るため、リカーショップで材料を調達することにしました。

 

駐在中、私の“実験”に散々付き合わされた妻ですから、私のそんな気まぐれに当初は難色を示しましたが、私が半ば押し切る形で、自家製ジントニック作りを始めることになりました。

 

その際に、店の棚にかつての実験で使ったジンを見つけてしまったことから、私のマティーニ作りの虫が再び騒ぎ始めたのです。

 

駐在中に購入したカクテルブックも参考にしたのですが、今のご時世、プロのバーテンダーの方々がユーチューブにカクテルの作り方をアップしてくれています。私は、昔の記憶を手繰り寄せながら、にわか勉強を始めました。

 

ジントニックは、すんなりと妻の口に合うものが完成しました。あるいは、妻が実験台にされることを嫌い、早々に合格点をくれたのかもしれません。実験の本命、マティーニも今回はそこそこのものが出来上がりました。これまでと違ったジンやベルモットを使ったわけでも無く、配合を変えたわけでもありません。成功の鍵は、予めグラスを十分に冷やしておくことと、ジンの香が立ち上がるタイミングの見極めでした。

 

彼の地で繰り返された実験では、何度作っても、水っぽく切れの無かったマティーニでしたが、それは、私がレシピの中で一番肝心な点を見逃していたことが原因でした。

 

自家製のカクテルなど、プロのバーテンダーの方々が作る本物には足元にも及びません。とは言え、長年のモヤモヤが解決されたことは、私にとってはささやかな喜びでした。