責任感に縛られる
職場で信用を勝ち得るにはどうしたらいいのでしょうか。少なくとも、与えられた仕事を途中で投げ出してしまうようだと、次の仕事は回って来ません。周囲からの信用を得るための近道は、コツコツと結果を積み重ねていく以外ありません。
仕事を途中で放棄せずに結果を積み重ねていくことで、「責任感のある人間」と言う正のレッテルが貼られ、次第に重要な職務が与えられるようになります。正のレッテルは一度剥がれてしまうと、それを取り戻すのは容易なことではありません。信用を失ってしまった結果、負のレッテルが貼られると、それを剥がすことは、正のレッテルを取り戻す以上に困難なことです。
多くの会社員は正のレッテルを守るために日々努力をしているのだと思います。世の中、時間外労働を減らそうと言う流れにあります。それでも仕事は減りません。業務効率化にも限度があり、溢れた仕事は、現場がサービス残業で対応しているのが現実です。
私の勤め先も同様です。ただし、昔と違うのは、サービス残業の主体が一般社員から幹部社員に変わったことです。サービス残業を正当化する会社はありませんが、それでもサービス残業は無くなりません。それは、会社が強制せずとも、一部の社員が“自発的に行なっている”ためです。
会社は表向き、社員の残業時間を減らす努力をしています。労働組合のある会社であれば、組合との協定があり、それが、社員の超過勤務の歯止めになります。それでも、サービス残業は完全には無くなっていません。会社は「結果を出せ」とは言いますが、「徹夜してでも」などとは決して強要はしません。しかし、多くの社員は、自分が期待されていると思っていると、「できない」とはなかなか口に出せません。サービス残業をせざるを得ないような仕事は、断り切れない人間のところに回ってくるのです。
何故、自分が期待されていると思ってしまうのでしょうか。ただ単に上司や先輩がそう言っているだけではありませんか。上の人間が「期待している」と言うのは、部下を叱咤激励するための常套句以上の意味はありません。
生真面目な人やプライドの高い人ほど、自己の責任感や周囲からの期待を勝手に膨らませて、自分の時間を犠牲にしてしまいがちです。それが必ずしも悪いことだとは言いませんが、そのように自分で自分を追い込んだ挙句に自滅してしまう犠牲者がいることも事実です。
責任感という素敵な言葉。その呪縛から逃れることが出来ず、仕事を全ての中心にしてしまうと、生きる意味を自問する余裕も無い人間になってしまいます。
部下に責任を負わせるな
私の部署では、部下には所定内の時間で仕事を済ませるように伝えています。残業が必要な業務は年に数えるほどで、恒常的に時間外勤務が発生するのであれば、それは仕事の配分が間違っているからです。
“チームワーク”と言うと聞こえは良いですが、仕事の遅い人間を手の空いている人間が手伝うこともさせません。自分の仕事を片付けて手が空いた部員は、時間通りに退社させます。仕事が追いつかずに慢性的に残業しなければならない部員がいれば、業務配分の見直しを行ないます。
部内の業務分担を考えるのは管理職の仕事であり、残業の多い部員に対して、「残業を減らせ」とか、「効率を考えろ」と詰るのは的外れなことです。
ところが、不思議なことに、残業の多い社員の業務分担を見直しても、何故か残業が思ったほど減らないと言うことが往々にして起こります。本当に時間が足りなくて残業せざるを得ない社員か、“生活残業”をしている社員かを見極めるのも上司の仕事のうちです。
さて、「結果責任」と言う言葉がありますが、誰が結果責任を負うのでしょうか。無能な上司ほど、何かあった時に下の人間に「責任を取れ」と吠えますが、責任を取ることは誰かから強要されるものでは無く、誰かに言われるまでも無く自ら進んで引き受けるものです。
部下が期待どおりの成果を上げられなかった時には、仕事を任せた上司以外、誰が責任を取るのでしょうか。仕事を任される側は、業務命令を断れない弱い立場に立たされているのですから、失敗の責任を取らせるのは酷と言うものです。
自分の価値、果たすべき責任
「結果が全て」と言う言葉に縛られ、自分の身を削って仕事をする人を非難するつもりはありませんが、仕事に振り回され、自分や家族を顧みる余裕もない状態であれば、それは普通のことではありません。
どんなに人並以上の収入を得られたとしても、人間らしい生活を送れないのだとすれば、何のために仕事をしてることになるのでしょうか。
仕事が趣味、あるいは、趣味を生かした仕事をしている人は別として、世の多くの人は生活の糧を得るための手段として仕事をしているのだと思います。何が自分にとって大切か。自分や家族、その生活が大切なら、自分のミッションが何か分かるはずです。仕事のために犠牲にするものなど何も無いのです。
組織の中の肩書が外れた時、自分に何の価値が残っているのか。それこそが自分の存在価値ではないでしょうか。