和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

自分らしさを貫くには (1)

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自分は自分と言う考え方

肩肘張らずに自分らしく生きる – それ自体は人生の目的ではありませんが、私がいつも大切に思っている原則です。

 

子どもの時分、親や教師などから、ことあるごとに“かくあるべき”と言われ、それに対して、「自分はそうでは無い」、「それは自分の望むことでは無い」と反感を覚える。そのような経験は誰でも持っていると思います。

 

私は高校卒業と同時に実家を出ましたが、それは、親元を離れて自活すれば、自分の思い通りの生き方が出来ると信じていたからでした。

 

しかし、その後、就職し結婚して自分の所帯を構えた後でさえ、自分らしく生きるには常に“肩肘を張る”必要がありました。仕事を前に進めるためには、意見の合わない上司や同僚と議論を戦わせなければなりませんでした。結婚する際にも、双方の両親を納得させなければなりませんでした。結婚後も生活全般に口出しされました。自分の思い通りにならないこともあり、その時々に葛藤を繰り返し、無理をして自分を納得させることもありました。

 

会社に関して言えば、大きな組織になればなるほど人間関係は複雑になるもので、その中で生きて行こうとすれば、上手く渡り歩く術を身に着けなければなりません。我を通そうとするだけでは物事は前に進まないことが多々あります。私自身、処世術を習得したとは胸を張って言える立場ではありません。自分に嘘を吐いてまで仕事はしたくないと考える私と、納得出来なくてもこの仕事を片付けなければ干されてしまうと考える私が煩悶を繰り返す - と言う場面が何度もありました。

 

他方、身内の話では、私の両親よりも、義理の両親の方が悩みの種でした。末娘が転勤商売の男と結婚し、自分たちの元から遠く離れて暮らすとなれば、暮らしぶりが気にかかるのは理解出来ます。妻は、自分の両親を過干渉だと鬱陶しく思っていたようですが、私としては、その間になって何とか丸く収めてくれないかと腐心していた時期がありました。

 

自分たちの思い描く生活を送ろうと考えて一緒になったことが、かえって煩わしさを背負い込むことになると、何のために一緒になったのだろうと悩んだこともありました。

 

人との関わりを完全に断つことが出来ない限り、自分らしさを貫くためには最小限の努力と忍耐が必要です。しかし、歳を重ねるにつれて分かってきたのは、自分らしく生きるために必要なことは、若い頃の自分が思っていた気負いや意地では無いと言うことでした。それと同時に、自分も、自身の生き方に害を及ぼさない限りにおいて、他者の考え方を否定したり批判したりすべきでは無いと言うこと、そして、自分の考えを他者に押し付けたり、自分より弱い立場の人間を縛りつけてはならないと言うことでした。自分は自分、他人は他人なのです。

 

敵と味方しかいない世界 (1)

もう20年近く前の話になります。当時私の部下で入社4年目のSさんは、仕事の幅も広がり、頼りになる部員として成長していました。ただ、一つ気がかりなことは、彼女の先輩のKさんとの関係でした。

 

Sさんから相談を受けたのは、1年前に私がその部に課長として異動してきてすぐのことでした。Sさん曰く、Kさんからは仕事の進め方について逐一報告を求められ、指示された通りに業務を行なわないと許してもらえず、自分の意見に聞く耳を持たないこと、また、プライベートのことにも口を挟んでくることから、出社するのが憂鬱だと嘆いていました。まだ部内の人間関係を十分に把握できていなかった私の目には、SさんとKさんは仲の良い先輩後輩としか映っていませんでした。そのため、Sさんの口からそのような言葉を聞くのは意外でした。

 

Kさんから話を聞くと、Sさんに一日も早く一人前に育ってもらいたいと言う思いから、そのように指導しているとのことでしたが、その指導と言うのはやや度を超している気がしていました。また、部内を見渡すと、Kさん自身が周囲から浮いている存在になっていることも分かってきました。そんなKさんにとって、Sさんは自分の言うことを素直に聞く唯一の存在でした。

 

当時私もKさんも30代半ばに差しかかっていましたが、一緒に仕事を進め、お互いに素の自分を見せるようになってくると、Kさんの、年齢の割に大人気無い言動が目につき始めたのでした。手柄を焦るあまりの仕事の囲い込み、周囲との軋轢を生む気の短さ。自分の意に沿わないことは、男女差別に議論をすり替えて話を混乱させる。私は個別にKさんと面談を重ねましたが、なかなかお互いの思いは交わることが無く時間が過ぎて行きました。

 

Kさんは誰と戦っているのだろうかと、私は考え続けていました。周囲の人間に対する敵意にも似た感情が無くならない限り、冷静に話をする環境を作り出すことが出来ません。

 

私以上にSさんは大変でした。Kさんに嫌われてしまうと仕事がやりづらくなるとの思いもあり、悶々とした日々を過ごしていました。そのような中、私の部下のT君と彼女との間で恋愛感情が芽生えました。Sさんは自分の悩みを同期のT君打ち明け、相談相手になってもらっていました。やがて二人は信頼し合える関係になっていったようです。私は二人から結婚することを打ち明けられました。

 

職場結婚はおめでたいことなのですが、夫婦で同じ部署で働くのは、公私の別がつきづらくなるため、結婚を機に二人の処遇を考えなければいけませんでした。と言うのも、これまで、Sさんとのやり取りを通じて、私の中ではSさんは結婚後も仕事を続けるものだと思い込んでいたからです。(続く)

自家製マティーニの話

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カクテル実験室

北米に駐在していた頃の話です。ある日、上の娘の高校進学を祝って家族で外食をしました。高校進学と言っても、あちらでは高校も義務教育なので、公立の学校では入試はありません。学区内の決められた学校に進んだだけなので、本人の努力を労う必要も無く、単に娘の進学を外食の言い訳に“利用”したと言うところです。

 

それはさておき、予約しておいたステーキハウスを訪れると、テーブルの準備が整っていないので店内のバーで待っているように言われました。娘二人を間に挟んで家族4人でカウンターに腰かけると、私と同年代くらいのバーテンダーが注文を取りました。

 

恥ずかしながら、それまでショットバーにはあまり縁の無かった私。普段、食事の際は最初にビールを頼むところですが、何の気まぐれか、メニューの中で目に留まったマティーニを注文しました。「ステアでは無くシェイクで」とジェームズ・ボンドが注文したカクテルです。

 

私はそんなセリフを吐くわけでも無く、バーテンダーの手の動きを目で追うだけでしたが、グラスに注がれたそのカクテルを口にした時の感激、あるいは衝撃は今でも忘れられません。

 

その時までマティーニのレシピすら知りませんでしたが、実は最初、バーテンダーが手にしたボトルがジンだと知り、“失敗したかな”と思ったのでした。以前飲んだジンは私には合わず、それ以来口にしたことが無かったからです。

 

ところが、ジンと少量のベルモットで出来たそのカクテルは、私の想像していたものではありませんでした。口に含んだ後に鼻から抜ける香り。アルコール度数の割には喉の奥が焼かれるような不快感も無く、すっと胃に落ちていくような感覚。その後に残る爽快感。私はマティーニの虜になってしまいました。

 

それからしばらくの間、私は外食の際には、食前に必ずマティーニを注文するようになりました。馬鹿の一つ覚えです。そして、それだけでは飽き足らず、私は自宅でマティーニ作りをするようにまでなったのです。カクテルグラスやミキシンググラス、バースプーンまで取り揃えて、週末の我が家のキッチンで、その“実験”は繰り返されました。出来上がった液体は、まず私が口にし、そして、妻にも味見をさせてみます。しかし、妻は顔をしかめるだけで、最初の数回でギブアップしてしまいました。

 

リカーショップで売られているジンとベルモット、そのどれを組み合わせても私を虜にした“あのマティーニ”にはなりませんでした。カクテルブックに書いてある通りの分量を忠実に守り、ステアの回数もいろいろと試してみてもどうもうまく行きません。

 

結局、熱しやすく冷めやすい性分から、私のマティーニ作りの実験は一年足らずで終わりを迎えました。買い込んだ様々な銘柄のジンは、帰国の際に知り合いに譲ってしまいました。妻はそれを結婚以来の無駄遣いだと呆れていましたが、私としては、あれほど嫌いだったジンが飲めるようになったことから、良い授業料だったと自分に言い訳しています。

 

久しぶりの自宅バー

さて、帰国後のある年、私たち夫婦は結婚記念日の外食の後にとあるバーを訪れました。そこで口にしたジントニックが妻のお気に入りになりました。さすがに家でジントニック作りの実験はしませんでしたが、それ以来、外食時にはジントニックが妻の最初の一杯になりました。

 

そんな妻ですが、前回の記事で触れたとおり、しばらくは“ほどほど”であればアルコールを口にしても大丈夫と主治医の先生からお許しを得ました。

 

とは言え、時節柄、バーに繰り出してカクテルを楽しむ状況ではありません。そこで私は、自宅でジントニックを作るため、リカーショップで材料を調達することにしました。

 

駐在中、私の“実験”に散々付き合わされた妻ですから、私のそんな気まぐれに当初は難色を示しましたが、私が半ば押し切る形で、自家製ジントニック作りを始めることになりました。

 

その際に、店の棚にかつての実験で使ったジンを見つけてしまったことから、私のマティーニ作りの虫が再び騒ぎ始めたのです。

 

駐在中に購入したカクテルブックも参考にしたのですが、今のご時世、プロのバーテンダーの方々がユーチューブにカクテルの作り方をアップしてくれています。私は、昔の記憶を手繰り寄せながら、にわか勉強を始めました。

 

ジントニックは、すんなりと妻の口に合うものが完成しました。あるいは、妻が実験台にされることを嫌い、早々に合格点をくれたのかもしれません。実験の本命、マティーニも今回はそこそこのものが出来上がりました。これまでと違ったジンやベルモットを使ったわけでも無く、配合を変えたわけでもありません。成功の鍵は、予めグラスを十分に冷やしておくことと、ジンの香が立ち上がるタイミングの見極めでした。

 

彼の地で繰り返された実験では、何度作っても、水っぽく切れの無かったマティーニでしたが、それは、私がレシピの中で一番肝心な点を見逃していたことが原因でした。

 

自家製のカクテルなど、プロのバーテンダーの方々が作る本物には足元にも及びません。とは言え、長年のモヤモヤが解決されたことは、私にとってはささやかな喜びでした。

サラリーマンの垢

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気持ちの切り替え

早いもので、私が介護休業に入ってからもうすぐ1か月となります。専業主夫業と妻の介助に専念する一方で、仕事から完全に切り離された生活は、当初、どこか落ち着かない奇妙な感覚が抜けませんでした。

 

これまでの約30年間は、会社の業務の段取りを考えたり、余計な人間関係に悩まされたりするのが“日常”でした。そんな生活を送っていると、不思議なもので、悩み事の無い状況に戸惑ってしまうようです。平穏な日常の中で無理に問題を探し回る自分がいました。

 

しかし最近ようやく、家事と介護を中心とした新たな“日常”を何の違和感も無い当たり前のものとして受け入れられるようになりました。自分の中では、一足早いリタイア後の生活を予行演習している気分です。

 

幸いにして、妻の予後も良好で、抗がん剤の投与が再開されるゴールデンウィーク明けまでは、本人としても薬の副作用に悩まされることの無い心地良い時間を過ごせる期間になります。

 

実は、3月半ばに、手術前の妻と、ゴールデンウィークに旅行する予定を立てていました。昨年計画して実現できなかった夫婦旅行のやり直しです。もちろん、妻の体調次第ではあったのですが、心配していた体調も快復し本人も大いに乗り気、準備万端でした。

 

ところが、東京に3度目の緊急事態宣言が発出されたため、夫婦で相談した結果、夫婦旅行はまたの機会に取っておくことにして、今年も巣ごもりゴールデンウィークを過ごすことになりました。

 

娘たちも、ゴールデンウィークは友人と計画を立てていたようですが、こちらもとん挫してしまったようなので、連休中は、正月休み以来、家族水入らずで過ごすことになりました。

 

サラリーマン気分、サラリーマンの垢

新入社員が叱責される際によく使われる言葉の一つに、「学生気分が抜けていない」と言うのがあります。私も何度も上の人間から言われた言葉ですが、学生気分とは何なのか良く分かりませんでした。弛んでいることの代名詞なのかもしれませんが、いずれにしても、サラリーマンとしてなっていないと言いたかったのでしょう。

 

さて、学生気分の反意語として“サラリーマン気分”なる言葉は無いのでしょうが、会社を辞めて独立する人などが、時たま、「サラリーマンの垢を落としてから~」と口にすることを思えば、会社勤めをする中で心にこびりついた何かがあるのでしょう。冒頭で触れたように、仕事の段取りを考えたり、人間関係に悩まされたり – 常に悩み事に対峙し続ける心持ちをサラリーマン気分と言えるかもしれません。また、そのようなサラリーマン気分に長年浸るとサラリーマンの垢が心にこびりつくのかもしれません。

 

そんなことがふと頭を過っても、今や深掘りするほどの拘りは無くなりました。思い悩むことが無くなったからかもしれません。

 

先日、下の娘から、締まりの無い顔になったと痛烈な一言を浴びせられて以来、自分の顔つきを気にするようになりましたが、毎日見飽きている自分の顔の違いは自分では分かりません。「締まりの無い顔」 - 娘はおそらく、「柔和な笑顔」と言いたかったのだと信じていますが – は、私が今の生活を楽しんでいる証なのだと思います。人の相貌は精神状態を映し出す鏡です。嘘はつけません。

 

妻の闘病をサポートしたい。その一心で選んだ介護休業でした。そして、今、自分がやりたいと考えていたことを実行していることに満足感を覚えています。

 

しかし、ふと、立ち止まって考えた時、本当に妻のサポートのためだけが理由なのかと問いかける自分もいます。仕事と言う煩わしさから逃げ出すための言い訳だったのではないか。自分のための休息が欲しかっただけではないか。

 

妻を支えるための最善の策として、介護休業の道を選んだことに偽りはありませんが、そのことで、私自身が“救われている”と感じていることは確かなのです。そして、私は今の生活を心の底から楽しんでいるのです。

 

介護休業の終わりは5月の末。今の私の気持ちは、まるで、夏休みの終わりに向かっていくそれにとても良く似ています。