和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

感謝する喜び (1)

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畳コーナー

家のリビングの片隅に3畳ほどの畳コーナーがあります。和室は要らないけれど、フローリングだけでは味気無く、ほんの少しだけ畳を敷いたスペースが欲しい。家を建てる際に妻のそんな要望を形にしたのが畳コーナーでした。

 

つい半年前まで、私はそこで胡坐をかいて新聞を読んだり、ゴロゴロしたり。妻は裁縫をしたり、洗濯物を畳んだりと、お気に入りのスペースとして使っていました。

 

今、日中は畳コーナーには布団が敷かれ、妻が横になっています。寝室に独りでいるよりも、リビングにいれば、家族の目も届きます。また、洗面所への動線の便も良く、外の風景に目をやったりテレビを見たり気分転換できるので、妻にとっても都合が良いのです。

 

妻はこの数か月、抗がん剤治療を受けてきました。3週間に1度、病院で抗がん剤の投与を受けると、その後2週間くらいは倦怠感や発熱など薬の副作用が現れます。妻が辛そうにしていても、私には体をさすってあげることくらいしかできませんが、次の投与までの1週間は比較的副作用も収まるので、家の周りを散歩したり、好きな映画のDVDを見たりと一緒にいられる時間を楽しむことが出来ます。

 

体調の良い時の妻は、以前の話好きに戻ります。そんな時は、平日の勤務時間中でも、会議や打ち合わせが無い限り、私は妻の傍で仕事をするようにしています。妻との会話を楽しみながら、膝の上に乗せたラップトップで資料に目を通したりしていると、何でもない時間ですら、とても愛おしく思えるようになりました。

 

コロナ禍での抑圧された生活や妻の病気で、“順風満帆”とは言えなくなってしまった我が家ですが、逆にそのようなことが起きなければ、これほどまでに家族の結束は得られなかったかもしれないと思うと、悪いことばかりではありませんでした。むしろ、この一年の間の様々な出来事が、私を本来あるべき立ち位置に連れ戻してくれ、娘たちを一回り大きく成長させてくれた気がするのです。

 

主夫への道

在宅勤務は通勤時間が無くなる分、自分の時間が増えることになります。しかし現実は、仕事とプライベートの切り替えが難しく、日によっては、終業時間後もずるずると仕事をする羽目になることもありました。それでも、家にいれば、何かあったらすぐに対応できるので、通勤するよりもはるかに気分が楽なことは確かです。

 

元々週末は家事一切を引き受けていた私でしたが、在宅勤務が主流になってからは、家事を行なう比率が高まりました。

 

娘たち二人も、これまで以上に家事を分担すると言ってくれました。しかし、彼女たちはまだ社会人1年目と大学2年生。それぞれの時間を謳歌してもらいたい。そんな親の勝手な思いから、娘たちには私の手の行き届かないところを手伝ってもらう程度にしようと考えていました。

 

ところが、娘たちもそれでは気が収まらなかったのでしょう。自分たちの休みや空いている時間は、進んで炊事や掃除をしてくれるようになりました。なぜか、自分たちの部屋の整理整頓も行き届くようになりました。これまで口が酸っぱくなるほど部屋を片付けるように言っていたのが嘘のようです。結局は親が小言を何度となく繰り返すよりも、そういう状況が来れば、子どもは自ずと行動を起こすのだと知りました。

 

妻や娘たちは、私が虚勢を張っているだけなのではないかと訝っているのですが、家事をしている時の私の気分は不思議と晴々しています。心の落ち着きは自分でも分かります。自然に家事に取り組んでいるのは、止むを得ずとか義務感に駆られてと言うことでは無く、大切なものを守っていきたいと言う自分の本心の表われなのでしょう。そう私は理解しています。当初、私も “兼業主夫”が務まるか内心は不安でしたが、この半年間を振り返ってみると、仕事と主夫業の両立を案外楽しんでいる自分がいました。

 

学生時代から自活していた私にとっては、家事を行なうこと自体何の抵抗もありませんでしたが、改めて感じたのは、仕事よりも主夫業の方が自分には向いているのではないかと言うことです。家事はその気になれば、かなりの手抜きが出来る反面、拘ろうと思えばトコトン追求できる – そんな奥深さがあります。しかも、100%自分の裁量で取り仕切れるのです。そんな自由を会社人生で味わったことはありませんでした。そう考えると、主夫の道を究めるのも悪いものではありません。

 

心のゆとり

会社の勤務時間は出社であれ在宅であれ、1日7時間半なので、その間は仕事に拘束されることになります。しかし、今、自分の中で仕事とプライベートのウェイトは1対9くらいになっています。決して仕事の手を抜くわけではありませんが、オンとオフの切り替えをしっかり行なって、プライベートな時間は家族のことだけを考えられるようになりました。

 

家族のことに専念できるゆとりが生まれたことで、私はこれまでになく精神的に安定している時期を迎えています。ここに至るまでとても長い遠回りをしてきましたが、心の中で何かがカチッと収まった感覚を味わっています。(続く)

子どもの嘘と大人の嘘

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嘘の雪玉

私たちは、物心がつく頃から嘘を吐いてはいけないと繰り返し教え込まれてきました。しかし、ほとんどの人はいけないことなのだと知りながら、それでも嘘を吐いてしまいます。

 

子どもの頃の私は酷いもので、毎日のように嘘を吐いていました。宿題を忘れた理由、学校をサボった理由、親との約束を破った理由。その場をやり過ごすことしか考えていないので、話している自分もどこまで本当で、どこからが嘘か分からなくなってしまうことがありました。

 

小学五年の時のことです。担任は女性のA先生。大学を出て初めての受け持ちが私たちだったこともあり、年の離れた姉と弟妹たちのような感じのクラスでした。

 

今の学校では決して許されないのでしょうが、当時の小学校では、宿題を忘れれば、廊下に立たされたり、先生から頭にゲンコツを食らったりしたものでした。ところが、A先生は生徒たちに手を上げたり、声を荒げたりすることはありませんでした。

 

私の嘘吐きの癖はこの頃も直っておらず、先生からは宿題を忘れたりする度に注意されていました。そして、ある時、私は放課後に職員室に呼び出されました。

 

先生は、前年の担任から、私が平気で噓を吐く生徒だと聞かされていたこと、いつか私の嘘を吐く癖が治ると思って見守ってきたものの、一向にその気配が無いため、一度じっくりと話をしたいと思っていたと言いました。これまでの担任の先生とは違い、A先生は一度も私を叱りつけるがありませんでした。そのA先生から私と話がしたいと言われ、私は自分の嘘に初めて後ろめたさを感じました。

 

最初はドキドキしながら吐いた嘘でも、何度もそれを繰り返していると、平気で嘘を吐けるようになる。悪いことだと感じなくなる。心が悪いことを感じなくなれば、人を騙したり、傷つけたりすることさえ平気で行う人間になる。自分のクラスからはそんな人間を出したくない。

 

A先生はそのようなことを私に伝えました。目を赤くしながら話す先生の姿を見て、私は、真面目に心を入れ替えなければと、子供心ながらそう思いました。

 

たしかに、罪悪感を覚える行為でも日々の積み重ねで心が慣らされてしまうと、悪事に対する感覚の麻痺は、坂道を転がる雪玉のように膨らみ続けて止められなくなるのかもしれません。私にとっては担任の先生が歯止めとなってくれたおかげで、自分を省みる機会を得ることが出来たのです。

 

 

大人の嘘

大人になって、自己保身のための嘘を吐くことは無くなりましたが、“大人の事情”で、心にも無いことを言わざるを得ない場合が私にもありました。言い訳になってしまいますが、生きて行く上の方便として、人を傷つけない範囲での嘘は許容すべきではないか。もっと言えば、人を傷つけないための嘘は許されるのではないかと思うのです。

 

しかし、人を傷つけないために吐いた嘘で、より深い傷を誰かに負わせてしまうこともあります。

 

私たち夫婦がまだ二人暮らしだった頃、社宅の下の階に住むBさんご夫婦と親しくさせてもらっていました。Bさんは私より6年先輩でした。当時妻は求職中で、社宅で過ごす時間も多く、専業主婦だったBさんの奥さんとはお互いに行き来する仲でした。

 

ある日帰宅すると、妻が思い詰めた顔をして私を待っていました。その日の昼間、Bさんの奥さんが近所のスーパーで万引きをしたのだと言います。スーパーからの電話では、旦那さんは出張中、近くに身寄りも無く、奥さんから妻に連絡するように言われたようでした。

 

妻からその話を聞いた私は首をかしげました。Bさんとはその日会社で顔を合わせており、出張で不在などと言うことは無かったはず。妻は、万引きの一件をBさんに話すべきか私に相談してきました。聞けば、件のスーパーでは、出入り禁止となったものの、万引きは“初めて”で、警察に通報されずに済んだとのこと。そうであれば、そっとしておいてあげた方が良いのではないかと私は思いました。

 

そう話す私に、妻はしばらく躊躇している様子でしたが、やっとのことで口を開きました。実は初めてではないのだと。先月も別の店でBさんの奥さんは万引きをして取り押さえられ、その時も旦那さんが出張中と言う理由で、私の妻が呼び出されたのでした。

 

私の頭に、Bさんの奥さんは万引きの常習犯ではないのかと疑念が浮かびました。しかし、警察沙汰にもなっておらず、わざわざ事を荒立てるような真似はしたくなかったので、Bさんの耳にはこの話は入れないことにしたのでした。

 

妻は思っていることが顔に出るタイプでしたので、それ以来、Bさんの奥さんとの行き来は無くなってしまいました。しばらくして、会社でBさんと顔を合わせた時に、Bさんから奥さん同士の行き来が無くなったことに触れ、何かあったのか尋ねられました。私は嘘を吐きました。それが、誰も傷つけない最善の選択だと考えたからです。

 

ところが、その後、Bさんの奥さんは窃盗の現行犯で逮捕されてしまいました。社宅内での噂はあっという間に広がります。そして、噂には尾ひれがつきます。ある家で無くなった貴重品も、社宅の管理費の集金額が足りなくなったことも、Bさんの奥さんに疑いの目が向けられました。Bさん夫婦はひっそりと転居していき、Bさんは数か月後に会社を辞めました。

 

如何なる理由があっても窃盗は許されるものではありませんが、決してお金に困っているわけでも無いのに、万引きに手を染めてしまったのは、奥さんが抑え切れない大きなストレスを抱えていたのではないかと思っています。もし、私たち夫婦が、仮に嫌われることになったとしても、Bさんに正直に事実を伝えていたなら、奥さんの万引きを止め、逮捕されることを避けられたかもしれません。

 

私たちは、良かれと思って口を閉ざし、Bさんにも嘘を吐いてしまいました。その結果は、子どもの嘘とは比べられないほど後味の悪いものになってしまいました。

 

雑談と沈黙

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雑談を通して見える人柄

前回の記事で、私の勤め先で行なっている「コミュニケーションタイム」について触れました。

lambamirstan.hatenablog.com

 

その導入当初、ある打ち合わせの後に、別の部の課長から言われたことがあります。「何かの拍子に口をついて出た話題が広がるのが雑談で、“さあ、これから雑談を始めましょう”と言うのは雑談ではない」。仕事以外の話は全て雑談と捉えても良いような気もしますが、確かに、“さあ、始めましょう”と断ってから雑談するのは奇異な感じがしないでもありません。

 

それはさておき、単に仕事を進めることだけを考えるなら、会社の同僚とは業務連絡を行えば足り、仕事以外のことを話す必要など無いわけです。しかし、会社は職場の雰囲気作りの大切さを説きます。人事部は一時期、職場での私語が残業を増やすなどと見当違いなことを言いながらも、結局は雑談を一つのツールとして、在宅勤務下での良好な人間関係維持を模索しているのです。会社は、円滑な人間関係維持のための雑談の有効性を認めたのです。

 

かく言う私も、雑談の有効性について当初は懐疑的でしたが、部内の人間とのコミュニケーションを活性化させる効果があることが分かりました。また、世間話などを通じて垣間見える相手の意外な側面から、その人柄や思考パターンを知ることが出来ました。共同で仕事を行なう上で、グループに属する各人の性格や個性に配慮した対応を考えることは重要なことで、その点、雑談は相手のパーソナリティーを理解する好機でもありました。

 

話の後の沈黙が怖い

相手を知る上で雑談が有効であるのと同時に、場の雰囲気を作るための雑談の役割も重要です。

 

会社の同僚や商談相手との会議や面談。予定時間よりも早く集合した場合など、たとえ頻繁に顔を合わせている間柄だとしても、沈黙は気まずさを醸し出します。仕事以外に話をしたことが無い相手の場合、何か共通の話題が無いか、あるいは、仕事以外の話を振っても良いのか、そんなことを考えていると沈黙はさらに続きます。沈黙でその場の空気が固まらないように、雰囲気を和ませる雑談を提供するのも仕事のうちです。

 

私はこれまで、自分は雑談が好きではないと思っていました。事実、同僚や取引先とスモールトークをするのが億劫だと感じることがほとんどなのですが、仕事柄そうも言っていられないので、話題を提供できるようにいろいろ情報を仕入れる努力を怠らないようにしています。

 

雑談や世間話。自分ではかなり無理をして、“ネタ”を仕込んでいるのですが、考えてみると、私は話が嫌いなのでは無く、自分の振った話が受けなかった時のことを恐れているのだと、今さらながら気がつきました。

 

もちろん、私は噺家の方々のように話芸を生業とする者ではありませんが、自分が話を振るからには、相手に喰いついてもらいたい、感心してもらいたいと、心の底では思っていたのでしょう。つまり、沈黙は沈黙でも、自分の話が“すべった”時の沈黙を恐れていたのだと思います。

 

その点、関西の取引先の方々は、ほぼ全員、話の最後に“オチ”を仕込んで来ます。会合の場などで、沈黙を恐れるのとは逆に、雑談 – というか、持ちネタ – を披露することを楽しんでいるかのようです。私は、雑談のために仕入れた情報を“持ちネタ”だとは思っていませんが、相手を楽しませようと言う“もてなし”の気持ちが欠けているので、雑談を億劫に感じていたのでしょう。

 

部内のコミュニケーションタイムが、私にとって気が楽なのは、15分と言う時間が決まっていることと、会社の業務の一環で話をしているだけで、相手をエンターテインする必要が無いからなのです。

 

また、家族との会話が楽なのは、話の“オチ”をいちいち考える必要も無く、蘊蓄の無い話を続けていても文句を言われないからなのです。もっとも私の話は、娘たちからは、「長い」、「ウザい」と言われることがままありますが、そのようなクレームも気にしなくて済むのが、家族内での雑談なのです。

 

本来の雑談とは、中身の無い、どうでも良いことの寄せ集めで十分なはずですが、仕事の場では、雑談とは言え、それなりの“格調”が求められるため、気遣いして疲れてしまうのだと思いました。

 

しかも、四六時中家で顔を合わせている家族とは、わざわざ意識して雑談などしません。一緒に過ごしていても、その間ずっと会話を続けることなどありません。その時自分の頭に浮かんだことを口に出し、それがきっかけになって“雑談”が盛り上がることはあるでしょうが、そんな話題が無くても、自分が自然体でいられる相手との間では、沈黙を気にすることなど無いのです。