和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

愛情の報酬

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幸せの押し売り

私の勤め先の後輩に、去る6月に結婚を予定していた者がおりました。コロナ禍の影響で結婚式は延期と伝えられていましたが、先々月、電話で結婚を取り止めるとの連絡を受けました。

 

奥さんの親御さんが職を失ってしまうかどうかの瀬戸際らしく、結婚式の延期もそれが理由だったとか。ところが、後輩は何を焦ったのか、入籍だけでも進めようとした結果、フィアンセの不興を買ってしまったようです。

 

ちょうど去年の今頃、忘年会の席で婚約発表を行なった後輩は、一年後にこんなことになるなど、夢にも思っていなかったでしょう。プロポーズの言葉は「○○ちゃんを幸せにします」だったそうですが、それは、私が一番引っかかる言葉でした。

 

自分の幸せや愛する人の幸せを願わない人はいません。プロポーズの言葉でも、“幸せ”はキーワードとしてよく使われるのでしょうが、どれくらいの人がその言葉の意味を分かって使っているのでしょうか。

 

私は、誰かの幸せを願うことは出来ても、“幸せにする”ことは出来ないと考えます。お金さえあれば、相手が願った時に欲しいものを与えてあげられる、そんな環境を作ることは出来るでしょう。しかし、欲求が満たされることと心が満たされることが必ずしも同じでないのは、普通に生きていれば誰にでも分かることです。

 

プロポーズの相手に向かって、「君を幸せにしてみせる」とカッコいいセリフを吐く人は、どうしたら相手を幸せにできるのか、どのような方法で相手を幸せにしようと考えているのでしょうか。“誰かを幸せにする”とは、一聴すると、相手を大切に考えているように聞こえますが、相手の幸せが何かを考えれば考えるほど、容易く使うべき言葉では無いのです。

 

欲しいと言ったものを全て買い与えれば、相手は幸せになれるとでも思っているのでしょうか。毎月せっせと給料を家に運んでくれば、相手は幸せになれるのでしょうか。実は相手はそんなことを望んでいないのかもしれません。

 

高級なアクセサリーをプレゼントし、三ツ星レストランへ食事に誘うことが、相手に幸せを感じてもらうための手段だと考えているならば、それは、幸せの押し売りです。分別のある相手であれば、そのようなことが度重なれば、自分がお金で買われているだけの存在だと察するはずです。

 

その愛、人の為ならず

どんなに手の込んだ料理を作ったとしても、それを美味しいと感じられない相手の口から、無理やり「美味しい」と言う言葉を引き出すことは出来ません。また、自分がこれだけ手間暇かけて料理を作ったのだから、相手に対して、次は食事をおごってもらおうなどと期待してはいけません。

 

同様に、どんなに相手のことを思って行なったことでも、相手が不快に思ったり、鬱陶しく思ったりしているのなら、それは、自分の独りよがりに過ぎません。相手が自分に感謝しないことに腹を立てても仕方の無いことなのです。また、相手に対して、自分への思いやりを強要することもしてはならないことです。

 

「情けは人の為ならず」と言うことわざは、情けは回り回って自分に返ってくるものだから、他人には親切にするものだ、と言う意味ですが、愛情をもって接する相手に対しては、見返りを求めるようなことをしてはならないと思います。相手への行為に対して報酬を求めるのは、愛情ではなく“下心”です。

 

見返りを求めない思いやりこそが、愛する相手への慈しみです。自分の思いや愛情(と思っているもの)に対して、相手の愛情を期待するのであれば、それは、「情けは人の為ならず」と同じく、打算的な、偽りの愛になってしまいます。

 

自分がこんなに愛しているのだから、きっと幸せにするから、一緒に暮らしたいと言う気持ちは、実は自分のことしか考えていない人間が吐く言葉なのです。

 

幸せとは、自分の心が感じる、極めて主観的なものです。決して、誰かに与えてもらうものではありません。自分を幸せにするのは、自分以外にいません。相手を幸せにするのは、相手本人以外にいないのです。自分が出来ることは、相手の幸せを願うことだけです。

 

鳴かないカナリア

相手を振り向かせようと、あるいは、つなぎ止めようとして、相手の気に入りそうなことをし続けても、そのような努力が実を結ぶとは限りません。もし、高額なプレゼントで顔を綻ばせ、何の躊躇も無く次から次へと高価な贈り物を受け取るような相手だとしたら、それは自分に気があるからでは無く、プレゼントしてもらうものに興味があるからです。

 

尽くしてもなびかない相手に対して、愛情が無くなったと思ったとしたら、それは端から相手に対する愛情など無かったからなのです。相手の気を引こうと言う気持ちは、下心であり愛情ではありません。

 

婚約を破棄された途端に、過去にプレゼントしたものばかりでなく、デート代など相手にかけたお金を取り返そうとする者がいますが、そのようなことをすること自体、相手に見返りを求めていた証拠です。

 

どんなに自分が愛していると思っていても、その思いを受け止めるか否かは相手次第です。どんなに幸せにしようと努力しても、相手が幸せだと感じるか否かもまた、相手次第です。相手を慈しむ気持ちや幸せを願う気持ちは、見返りを求めるものでは無いのです。

必要なのか、欲望なのか

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幸せの証

過去に何度か父親のことに触れた記事を書きました。祖父から仕事を引き継いだ父は、家族だけで営んでいた町工場を、従業員十数名を雇うまでに成長させました。

 

しかし、今考えると、それは私の父に商才があったからでは無く、たまたま高度成長の波に乗れたと言う幸運の賜物だったのだと思います。

 

高度成長期からバブル期まで、途中、オイルショックによるブレーキはありましたが、それでも当時の人々は良き時代が終わることなど想像もしていなかったことでしょう。

 

私の父もその一人でした。怠けずに仕事をしていればお金は稼げる。自分で稼いだお金を自由に使うことが幸せの証だったのです。

 

急に金回りが良くなると、「必要なもの」だけでは無く「欲しいもの」を手に入れたがるようになるのは、私の父だけでは無いはずです。車、クルーザー、別荘。欲しいと思ったものは、後先考えずに手に入れていたようです。当時の父は、その十数年後に自分の手掛けた事業が破綻することなど夢にも思わなかったことでしょう。

 

私は、そのような環境の中で生まれたため、当時の我が家が普通の家庭だと勘違いして育ちました。親にねだれば何でも買ってもらえる境遇は、傍から見れば恵まれていると映るかもしれません。しかし、今の私が子供の頃の自分を見たとしたら、なんて哀れな子どもなのだろうと感じたと思います。

 

簡単に手に入れられるものは、有難みを感じることが出来ません。お金を払って手に入れるまでは、あんなに欲しかったものが、自分のものになった途端に輝きを失ってしまいます。そして、また、新しいものが欲しくなる。私の幼い頃はその繰り返しだったのです。欲しいものを手に入れたいと言う欲望は、簡単に叶えられれば叶えられるほど増幅して行きます。砂漠に水を撒くように、潤いを保ち続けるためには水を撒くことを止められなくなってしまうのです。

 

理不尽な反発

子どもの頃の私は、自分の家の台所事情など分かるはずも無く、親の苦悩を知らずに暢気に暮らしていましたが、それでも、父の顔から笑みが消え、夜遅くまで両親が居間で深刻そうな顔をして話している様子から、家の中で何か良くないことが起こりつつあることは薄々感じるようになります。

 

当時私は中学卒業を間近に控えていました。自分のことだけに限って言えば、高校受験も終わり、晴々とした気分に浸っていてもおかしくない時期でしたが、そこからの数年間、私は父を恨むようになりました。

 

日々欲望が満たされている間は、自分が飢餓状態の淵にいることが分かりません。ある日、欲しいと思ったものが手に入らなくなった途端に、自分の置かれている境遇、そしてそれを招いた父に対して理不尽な怒りを覚えるようになったのです。

 

理不尽 – その言葉どおりに、やり場の無い怒りを父に向けました。そして、高校卒業と同時に家を飛び出したのです。今思えば、両親を支えるべき年齢に達していたにも拘わらず、私は自分のことしか考えられない未熟者だったのです。

 

我慢を強いられる生活が続く中でも、他人の物を盗むなど、犯罪に手を染めなかったのは、お金は自分で稼ぐものだと言う父の教えがあったからなのだと思います。それと同時に、刹那的にお金を使うことを続けていては、身を亡ぼすことにもなりかねないことを学んだ点では、父は反面教師だったのでした。

 

大学生の独り暮らし、しかもアルバイトで生活費と学費を工面することは楽なことではありませんでした。ただ、あの4年間 - 浪人時代を入れると5年になりますが – で、衝動的にお金を使うことがほとんど無くなったこと、自分にとっての、要不要の見極めができるようになったことは、貴重な経験であり、今の私のお金に対する考え方の土台作りの期間でもありました。

 

欲しいものが必要だとは限らず

先にも触れたとおり、欲望は一度歯止めが利かなくなると際限なく膨らんでいきます。もし、父の事業が破綻すること無く順風満帆だったとしたら、私は何の苦労も知らず、お金の有難みも知らずに父の跡を継ぎ、事業を傾け、そして潰してしまったことでしょう。

 

そう考えると、見当違いな親への憎しみがきっかけではあったものの、虚勢を張って親元を飛び出したことは、少し時間はかかりましたが、自分の甘い考えを改めさせ、大人同士として親に対峙するために必要な時間だったのかもしれません。

 

そして、今思うのは、別荘があっても、クルーザーを所有していても、躊躇なく使えるたくさんのお金があったとしても、それは幸せを具象するものにはなり得ないと言うことです。

 

欲しいと思っていたものが手に入れられたことや、親に別荘に遊びに連れて行ってもらったりしたことなどが、子供の頃の私にとって悪い記憶ではないものの、なつかしさを覚えられないのは、おそらく、ぜいたくな暮らしをすることだけでは心を満たすことが出来ないからだと思います。お金の自由度と幸福感は必ずしも比例しないのです。

パートナーに求めるもの

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見た目の若さか、真の健康か

見た目や体力の衰え。生き物である私たちにとって、加齢とともに訪れる衰えは避けては通れません。まだまだ若いと思いながらも、やがて、しわや白髪が増え、おなかの周りの贅肉が気になり始めます。

 

私も数年前までは、20代の、あの気力も体力も充実していた頃に戻りたいと願ったことが幾度となくありました。しかし、50代に差し掛かると、諦めの境地に達したこともありますが、自分には若いだけでは太刀打ちできない経験と知恵が備わっているはず、と強がってみせたりします。歳を取ることで失ってしまったものの代わりに、手に入れられたものがあると言うのが私の考えです。

 

もちろん、体力が衰えたとは言え、不健康で良いわけは無く、私は、成人病にならないように食事や運動にはそれなりに気を付けていますが、「見た目の若さ」そのものにはあまり興味がありません。周りから若く見られることを気にしている人は多いと思いますが、若く見られようが老けて見られようが、実年齢は変わりません。外見では無く、健康状態が良好かどうかの方が大事だと思っています。

 

外見とプロフィール

自分の外見は脇に置き、自分のパートナーにあれこれと注文を付けたがる人がいます。私の職場の元上司は、奥さんに、「体重が○○キロ増えたら離婚すると言っている」と、飲み会の席で自慢げに話していましたが、逆に奥さんから離婚を言い渡されました。見た目だけに拘り、相手の内面に目を向けることが出来ない人間は、それ故に相手から三行半を突き付けられることもあるのだと思います。

 

初対面の人との出逢いで、第一印象は大事ですが、見た目だけで人を判断してはならないことは誰でも知っています。それでも、つき合う相手を探す時、- とりわけ、婚活においては - 相手の見た目やプロフィールを必要以上に気にする人がいます。

 

相手の見た目に必要以上に拘るのは、 “知り合いに紹介した時に恥ずかしい思いをしないため”なのかもしれません。外見は歳と共に衰えていくものです。ましてや、30代から40代ともなれば、求める条件の中で外見を重視していては、自分にとって本当に相応しい相手を見逃してしまう可能性が高くなるのではないかと思うのです。相手の学歴や勤め先を条件とするのも然りです。

 

ましてや、年収に拘るのは、「お金で不自由な思いはしたくない」とか、「今よりも良い生活を送りたい」と言った、相手への経済的な依存の表われです。

 

自分が、相手の外見とプロフィールで品定めをしている時、相手も外見とプロフィールでこちらを品定めしているのです。

 

外見やプロフィール以外、自分が相手に提供できる価値とは何でしょうか。

 

相手に期待しないこと

今や、共働きが普通になりつつある時代。今後、それが当たり前になるでしょう。現在、男性の家事や育児への積極的な参加が叫ばれ、会社の就業規則の見直しが進んできています。“男性は家事や育児に参加しづらい”という環境が改善されたわけですから、これからの男性は、結婚する上で、従来女性に期待されていた「家事能力」や「育児能力」を兼ね備えている必要があります。

 

「花嫁修業」など、今の時代では死語であり、そんなことを口に出そうものなら、差別主義者のレッテルを貼られてしまいますが、かつて結婚相手の女性に寄せられる期待のひとつが、家事をこなせることであったのは否定できない事実です。学業を終えた後、就職せずに「家事手伝い」として、結婚相手が見つかるまでの間を家で過ごす女性が多かったのも事実です。

 

しかし、男女の別なく、学業を終えたら職に就くことが当然の世の中になれば、結婚相手としてお互いに望む条件は似たようなものになっていくと思います。共働きが当然となり、二人の収入で家計を回すことが当たり前になれば、とりわけ相手の収入への拘りは、男性から女性に向けられる条件の一つにもなるのではないでしょうか。逆に、女性から男性への条件としては、家事や育児を公平に負担してくれることがより重要視されることになります。

 

お互いに仕事を抱える夫婦であれば、家事や育児を押し付け合うのでは無く、むしろ、それぞれが手の回らないところを補完し合うような関係にならなければ、これからの結婚生活は上手く行かないのではないかと思います。

 

パートナーに求めるもの

夫婦がともに収入を得て、家事も公平に分担する。そのような関係において、それぞれが相手に求めるものとは何なのでしょうか。

 

「養ってもらう」、「家事を切り盛りしてもらう」と言った、相手に依存する関係は存在しません。家族という共同体を維持するために、夫婦は収入も家事も公平に貢献 – 負担では無く貢献 - することになります。

 

そのような前提に立った時、お互いに相手に求めるものは、ライフスタイルや思い描く家族の将来像と言った、長く一緒に暮らして行くための価値観の共有なのだと考えます。